「地球は丸い」と「地球は回っている」は同じじゃない
昔、地球は平面で、固定されていて、太陽や月や星が地球の周りをまわっていると信じられてきました。しかし、今では地球は丸く、かつ自転しながら太陽の周りを回っているというのが常識となっています。
地球が丸いということ、つまり「地球球体説」と、地球が自転しながら太陽の周りを回っていること、つまり「地動説」は当然、ワンセットになっていて、同じころに明らかになったと私は思っていたのです。でも、実際は違うようなのです。
地球球体説や地動説は、どちらも紀元前から提唱されていました。このうち、地球球体説は早くから認められていましたが、地動説は17世紀まで否定され続けてきました。さらに地球が自転していることが実証されたのは、なんと19世紀になってからだったのです。
例えば初めて大西洋を渡ってアメリカ大陸に到達したコロンブス。当然、地球は丸いということは知っていたでしょう。だって地球が平面だと思っていたら、恐ろしくて西へ西へとは進めなかったはずです。でも、地球が回っていることは知らなかった。
ここでは、今では常識となっている、地動説と地球球体説は全く異なった歴史を歩んだという話をしてみたいと思います。ご興味ありましたらご覧あれ。
コロンブスとマゼラン
コロンブスは1492年8月にスペインを出発し、同年10月に西インド諸島に到達しました。日本では室町時代です。コロンブスの目的は、地球が丸いということを実証すること。ではなくて、西回りでインドに到達することでした。これによって、マルコポーロの「東方見聞録」にある絹や金や香辛料などを手に入れることができると考えたようです。
それまで、ヨーロッパからインドや中国に達するためには、アフリカ大陸の南端の喜望峰を回るか、あるいは陸路を進むしかありません。しかし、地球が丸いならば、西にちょっと進むだけで簡単にインドや中国に到達できるはずだとコロンブスは考えたわけです。
当然、コロンブスは地球が丸いということを確信していたに違いありませんし、スペイン王室も地球が丸いということを信じていたでしょう。そうでなければコロンブスに航海の資金を提供するはずはありません。当時から地球は丸いということは常識だったのかもしれません。
ただし、実際には、コロンブスは地球が丸いということを証明することはできませんでした。途中にアメリカ大陸という彼らが知らなかった邪魔っけな陸地があったためですが。
実際に地球が丸いことを証明したのは、マゼランの一行でした。スペイン王の命を受けたマゼランは1519年にスペインを発ち、地球を一周して1522年にスペインに帰国しました。
スペインを出港したときの人員が270人だったのに対して、このとき帰国したのはわずかに18人。マゼラン自身を含めて多くの隊員が命を落としたり、行方不明になったりしましたが、それでも一応、地球は丸いということが実証されたわけです。
もちろんマゼランたちも地球が丸いということは、出航前から確信していたに違いありません。しかし、コロンブスもマゼランも地球が自転していることや、太陽の周りを回っていることは知らなかったのです。それは、ガリレオの宗教裁判でも明らかです。
ガリレオの宗教裁判
ガリレオは、地球が自転しながら太陽の周りをまわっていると主張しました。しかし、この主張はローマ教皇庁の逆鱗に触れ、宗教裁判にかけられ、その結果、ガリレオは終身刑になってしまいました。
マゼラン隊が世界を一周したのは1522年、ガリレオの宗教裁判は1633年です。意外に思われるかもしれませんが、ガリレオの宗教裁判の方が、マゼランの世界一周より100年以上も後のことなのです。(日本でいえば、マゼランの世界一周は室町時代、ガリレオの宗教裁判は江戸時代初期のことです)
地球が丸いということと、地球が回っているということは、当然同じことだろうと私は思っていました。地球は丸いから地球は回っている。太陽が回っているように見えるが、実は回っているのは地球の方なのだと。
ガリレオの宗教裁判を行ったとき、ローマ教皇庁は当然、地球は丸いと知っていたはずです。だって、その100年以上前にマゼランが実証して見せたのですから。でも地球が動いているとは頑として認めなかった。
地球が丸いと言うことは問題ない。しかし、地球は動かない。回っているのは地球ではなく、太陽の方だというのです。どうしてこんなに教皇庁は頑迷だったのでしょうか。それには理由があるのです。
地球球体説は紀元前から
遥か昔、まだ文明が始まったばかりのころ。地球は平面だと考えられていました。我々の住む地上は平面であり、地面の下は土や岩が無限に続いているんだと。確かに、普通に生活していれば、地球が平面であると考えても何の不都合もないように見えます。
地球は平面であり、毎日、東から太陽が昇り、西の地平線に沈む。しかし、地球が平面だとすると、西に沈んだ太陽はどうなってしまうのでしょうか。
西の地平線に沈んだ太陽は毎日死に、また翌日、新しい太陽が生まれて東の空に昇ってくると考える民族もいます。あるいは、西に沈んだ太陽は地球の縁をぐるりと回って東に戻り、また翌日、決められた時間に昇り始める。と考える人たちもいるでしょう。
じゃあ、月や星はどうなるのか。月や星々も東から登り、西に沈みます。太陽と同じです。一晩中起きていれば分かることです。
これも一旦すべて消滅し、翌日夜になると、再び生まれて昇り始めるのでしょうか。あるいは、西に沈んだ月や星は地球の縁をぐるりと回って、東の地平線の下に待機し、時間を見計らって順番に出てくるのでしょうか。ちょうど舞台の袖で待つ俳優のように。
でも、これはどうも考えづらい。太陽や月だけならそう考えてもいいかもしれませんが、星座は見かけ上、太陽や月より何倍も大きいのです。西の地平線に沈んだ星座がその形を維持したまま、地球の縁をまわっているなら、その星座の一部が移動しているのが地球から見えるはずです。星座の形を保ったまま、地平線の下にすべてが隠れるのは困難でしょう。
あるいは、星々が西に沈むと、星座が崩れて一旦星々がばらばらになり、一列になって東まで移動し、再び星座の形に組みなおして昇ってくるのでしょうか。これはちょっと不自然。
では、こう考えたらどうでしょう。地球自体が、まあるい玉の中にあり、そのまあるい玉が地球の周りを回っていると。この地球を覆う、まあるい玉を天球と言います。
この天球の内面に星座や月や太陽がへばりついている、と考えればうまく説明できます。西の地平線に沈んだ太陽や月や星座は、天球と一緒に地球の裏側をぐるっと回って、また東から昇ってくるのです。地上から星々を眺めているかぎりは、この天球説が最も自然な考えでしょう。
天球説が正しいとするなら、地球はその天球の中心に浮かんでいる形となります。そうすると、地面の下は土や岩が無限に続いているのではなく、地面の下は有限ということになります。地球が天球の中心に浮かんでいるのなら、地球自体も天球と同じように球形と考えた方が自然ではないでしょうか。
実際、地球が球形であるという証拠はいろいろあります。船が遠くに行くと、下の方が水平線に隠れてマストだけが見えるとか。月食のときに月に映る地球の影が丸いとか。あるいは、南に行けば行くほど、北極星の位置が下がってくるとか。
では、地球の反対側にいる人はなぜ落ちてしまわないのか。これについては、すべての物体が天球の中心に向かって落ちていく性質があるのだと説明されました。
実は古代ギリシャ時代にすでに地球は丸いと考えられていたのです。紀元前240年頃、ギリシャのエラトステネスは、夏至の時に北回帰線に位置するシエネでは太陽の影ができないのに、その北に位置するアレキサンドリアでは影ができることから、地球の円周を計算しました。その値は、現在測定されている地球の円周と最大20%くらいしか差がなかったと言います。
アリストテレスとプトレマイオスの宇宙観
このように地球が球体であることは、すでにギリシャ時代から提唱されてきました。地球は天球の中心に位置しており、動かない。天球が24時間で一回転する。これが天動説というわけです。
ところで、地球が宇宙の中心にあり、回転する天球に覆われている。その天球にすべての星々が付着している考えたとき、不都合な点があります。それは、太陽や月や惑星の動きが天球の動きと一致しない。少しずつズレるということです。
これについては、太陽や月や惑星は、天球にへばりついているのではなく、天球と地球の間にあって、地球を中心にして、それぞれが別の軌道を回っていると考えられました。そして、太陽や月や惑星の動きが観察され、その観察結果と整合させるために、天動説はどんどん精密になっていきました。
この精密な天動説をまとめ上げたのがアリストテレスです。これが紀元前300年代のことですから、日本ではまだ弥生時代。文字もなかった時代です。
アリストテレスは、地球は常に変化する世界であるが、その外側は変化しない完全な世界。そして、天球の外側に神がいると考えました。このことが、キリスト教の教義にも一致していたのでしょう、アリストテレス哲学はキリスト教に取り入れられ、キリスト教の権威を高めるのに大きな役割を担いました。
アリストテレスより少し時代が下って、紀元150年頃。アレキサンドリアのプトレマイオスはアルマゲストという天文書を記しました。ちなみに日本では邪馬台国の時代で、人々は裸足で、食べ物を手づかみで食べ、身体には入れ墨をし、衣服は布を巻き付けて紐で縛っていた。そんな時代です。
アルマゲストは当時の天動説を中心とした天文学の集大成ともいえる書物で、後のヨーロッパの宇宙観に大きな影響を与え続けました。その宇宙観は以下の図面によく表されています。
まず、真ん中に地球があります。ご覧のとおり、平面ではありません。球体です。地球の外側に、様々な星々が回っています。内側から、月、水星、金星、太陽(えっ、太陽も?)、火星、木星、土星の順にそれぞれの軌道で回っていて、その外側に天球があります。天球には12の星座が描かれています。
つまり、地球は球体であり、その周りに太陽や月やその他の星々が円軌道を描いて回っている。これが、ヨーロッパの宇宙観だったわけです。コペルニクスが出現するまでは。
だから、コロンブスやマゼランは地球が球体であると確信を持つことができたのでしょう。なお、コロンブスはジェノバの地理学者トスカネリが唱える地球球体説によって、地球が丸いということを知ったと言われていますが、地球球体説はトスカネリのオリジナルではなく、当時の知識人にとっては既に常識だったようです。
コペルニクスとガリレオ
一方、天球が回っているのではなく、地球が回っているという地動説は、地球球体説と同様にギリシャ時代から提唱されていました。しかし、この説は、ほとんど一般には受け入れられませんでした。これは多分、アリストテレスの威光が強すぎたためでしょう。
その後、地動説を再び提唱したのがコペルニクスです。1543年のことでした。コペルニクスの地動説は、いわゆるコペルニクス的転回(略してコぺ転)と言われるものです。
コぺ転はそれまでの考えと全く違った、逆の考え方をすることを言います。地球が平面で、太陽や月や星々が東から出て西に沈むと考えられていたのに、これを太陽や月や星々が動かず、地面の方が動いていると、まったく逆転して考える。これが正にコぺ転、逆転の発想というわけです。
しかし、実際のコペルニクスの地動説はそれとはちょっと違います。かれの説は、アルマゲスト図面の中にある、太陽と地球を入れ替えて、太陽が中心であり、地球が太陽の位置にあると提唱したのです。(ただし、月だけは、地球の周りをまわっている。)
例えば、火星が地球の周りを円軌道で回っているなら、常に一定方向に移動しているはずです。しかし、実際は地球から見て、時々逆方向に動くことがあります。コペルニクスは、地球が固定しているわけではなく、地球も円軌道で動くと考えれば、この逆行をうまく説明できると考えたのでしょう。
しかし、もし地球が自転するなら、相当の高速で動いていなければならないことになります。(実際、地球は赤道上では時速約1670㎞で自転しています)このような高速で回転している地球上で、例えば上に石を投げたら、その石は自転とは反対方向に、高速で飛び去ってしまうはずです。コペルニクスの地動説では、このことが説明できませんでした。
次に現れたのが、ガリレオです。ガリレオは様々な発見しましたが、その発見の中に慣性の法則があります。この慣性の法則では、地球がたとえ高速で自転していても、上に投げた石は地球と同じ速度で動くことになります。したがって地球が自転していてもおかしくないと説明することができました。
そのあと、1665年にニュートンが万有引力の法則を発見し、月も惑星も地球もその動きが万有引力によって説明されることになり、地動説は確固たるものになっていきました。ただし、地球が自転していることが実験で証明されたのは、1851年のフーコーの振り子の実験まで待たなければなりませんでした。
まとめ
地球球体説と地動説はいずれも古代ギリシャ時代に提唱されていました。このうち、地球球体説はアリストテレスやプトレマイオスによって体系づけられた天動説の一部として認められていました。つまり、地球は球体であるが動かず、天球が回っているという考えが、長い間、支配的な考え方でした。
地球が球体であるという考えは、やがてコロンブスやマゼランの大航海を生むことになりました。
一方、地動説については、天動説があまりにも巧妙に体系づけられていたため、なかなか認められず、ガリレオの悲劇を生むことになりました。
なお、ガリレオは、その後、減刑となり、アルチェトリの別荘に軟禁状態で生涯を過ごすことになります。この別荘で、彼は弟子たちに口述で自分の考えを伝えて新しい本を執筆し、77才で生涯を終えました。
2021年7月4日
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