今年2022年のノーベル化学賞はクリックケミストリーと生体直交化学の発展に寄与した功績で、米国スクリプス研究所のバリ・シャープレス、デンマークコペンハーゲン大学のモーテン・メルダルおよび米国スタンフォード大学のキャロライン・ベルトッツィの3氏に送られました。
では、この受賞理由となったクリックケミストリーとは何なんでしょう。これが素人にはなかなか理解し難いのです。実は私も合成化学はあまり得意ではありませんが、クリックケミストリーとはこういう物だろう、というところをできるだけ分かりやすく解説してみたいと思います。
有機合成化学
世の中のあらゆる物質は無機物と有機物に分けられます。有機物は炭素を含んだ化合物で、無機物はそれ以外という分け方。自然界に存在する90種類以上の元素のうち、ただ炭素という1種類の元素を含むものと、それ以外という分け方は随分と不公平ですが、それだけ有機物はわれわれの生活の中に緊密に関連している物質なので、そういう分け方をしているのでしょう。
有機物は数百万種類あると言われています。この有機物に含まれる元素は、炭素以外には水素や窒素、酸素、硫黄、リン、塩素、フッ素など10個程度しかありません。個々の有機物の違いは、この10個程度の元素の並び方の違いによって生じているわけです。ということは、この10個程度の元素の組み合わせを変えることによってどんな有機物も原理的には作り出すことができるということになります。
これらの元素の結びつきを変えて、思い通りの有機物を作ろうというのが、有機合成化学と言われる分野です。有機合成化学者たちは、様々な化学反応を組み合わせて、新しい合成方法を考えたり、新たな有機物を作り出そうとしたり、日々努力しているわけです。
アジド・アルキン付加環化反応
今回のノーベル賞の対象となったクリックケミストリーですが、始まりはそのような有機合成のための新たな化学反応の発見でした。
有機物は、その化学構造中に特定の構造を持つ部分を持っていて、それがその有機物の特徴の原因となっていることがあります。例えばCOOHという原子のつながりがある場合は、その物質は酸性を示します。NH2があると、アルカリ性です。NO2を持っていると爆発性があるので要注意といった具合です。このような特定の原子の集まりを官能基とよんでいます。
このような官能基の仲間に、アジドとアルキンがあります。アジドというのは窒素が3つ並んだ構造。アルキンというのは炭素と炭素が三重に結合している構造です。このアジド構造を持つ化合物とアルキン構造を持つ化合物は、トリアゾールという5角形の環状の構造をもった形になって結合します。
この反応は1893年に既に報告されていましたが、1960から1980年代にかけてロルフ・ヒュスゲン教授(故人)が精力的に研究を行った結果、新しい重要な反応であることが認識されました。
ヒュスゲン教授は、この反応を80℃から120℃程度に加熱し、12時間から24時間かけて起こさせていましたが、今回ノーベル賞を受賞したメルダル教授とシャープレス教授は銅触媒を使うことによって加熱せずにこの反応が進むことを、2001年のほぼ同じ時期に見出しています。
さらに、ベルトッツィ教授はアルキンを環状になった分子に組み込ませておくと、銅触媒も使わず、熱もかけずに同様の反応が起こることを見出しています。
つまり、今回ノーベル賞を受賞した3者はアジドとアルキンの付加反応が熱を掛けずに行えるという、有機合成化学上の新たなツールを見出したわけです。
クリックケミストリー
しかし、この3者の功績は、新たな合成反応を発見したというのならともかく、すでに1960年代に発見されていた反応の改良です。それほど重要なことなのでしょうか。実はこの反応からクリックケミストリーが提案されて、新たな合成化学の分野が切り開かれていったというところが重要なのです。
合成化学の分野では、様々な化学反応が駆使されますが、目的としない副反応が起こったり、特殊な分離操作を必要としたりする場合があります。また、生化学で研究対象とされるような巨大な有機化合物では、必要としない部分まで反応が起こったりすることもあります。
しかし、アジドとアルキンの反応はそのような面倒なことが起こらないのです。アジドとアルキンを含んだ有機物は、銅触媒を使うか、あるいはただ混ぜ合わせるだけで簡単に結合してしまうのです。そして、その反応はほぼ完全で、副反応も起こりません。また、特殊な分離操作を行わなくても精製することができ、水の中でも反応を行わせることができます。
例えば、Aという有機化合物にアジドを、Bという有機化合物にアルキンをそれぞれの分子構造の中に官能基として潜り込ませておけば、その二つを混ぜ合わせて、簡単な操作を加えるだけで、簡単にAとBを結合させることができることになります。
このように、有機化合物同士が、ちょうどシートベルトのバックルを締めるようにカチン(クリック)と結合することができるので、シャープレス教授らはこれをクリックケミストリーと名付けました。
そして、このような優れた化学反応はアジドとアルキンの反応だけではありませんでした。シャープレス教授たちは、既知の化学反応でもアジドとアルキンの反応と同様の優れた特性を示す化学反応をリストアップして、クリックケミストリーとして論文として発表しています。
例えば、このように優れた化学反応を起こす官能基を含んだ有機化合物を、試薬会社が何種類も作っておけば、研究者はこれらの試薬を買ってきて、簡単な反応条件で反応させるだけで、研究対象となる化合物を容易に合成することができることになるのです。
医薬品の開発やバイオテクノロジーに
このクリックケミストリーは新たな医薬品の開発や生化学いわゆるバイオテクノロジーの分野で威力を発揮することになりました。
生化学とは生命現象を対象とする化学の分野のことです。この分野では酵素やタンパク質、ビタミン、DNA、多糖類のような巨大で複雑な化学物質を対象とすることが多く、これらの化合物に何かの化学変化を加えてその働きを調べたり、新しい機能を加えたりすることがよく行われます。
しかし、対象が複雑であるため、ターゲットとする部分の改変が難しかったり、他の部位まで変化してしまったりこともあります。クリックケミストリーはそれ自体の反応はパーフェクトに進行しますが、それ以外の反応はほとんど起こらないことから、対象物の狙ったところだけを化学的に改変することが可能となり、しかも反応自体が非常に容易に、ちょうどバックルを締めるようにカチンとできるのです。
例えばアルキンを持ち、蛍光を発する性質を持つ化学物質を作っておき、これを前もってアジドを導入したウイルスと反応させるとウイルスが蛍光を持つことになります。そうすれば、その動きを光学顕微鏡で観察することが可能となります。
あるいは医薬品の化学構造の一部に特定の部位を付加してその医薬品の効果を高めたり、副作用をおさえたりすることも、クイックケミストリーでは容易にできることになります。
このように、クリックケミストリーによって専門の合成化学者でなくても、有機化合物に新しい機能を付け加えることが容易に行えるようになりました。その結果、特に生化学や創薬の分野でクイックケミストリーは強力で便利なツールとなったのです。このことがノーベル賞の受賞につながったのでしょう。
2022年10月9日
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