脱炭素社会の切り札、有機ハイドライド(MCH) 可能性とマスコミが報じない問題点

ENEOSがMCHを実証

2021年8月、ENEOSは有機ハイドライドの一種、メチルシクロヘキサン(MCH)から水素を取り出して利用する実証試験を開始すると発表した。この実証試験は、海外(今回は)ブルネイ)でMCHを製造し、国内の製油所に運び込み、同社が持つ製油所の既存設備を使って水素を取り出して活用する。この一連のプロセスを検証するというものである。

有機ハイドライドは脱炭素社会構築のための切り札とも言われる。この記事では、この実証試験がどのような意味を持つのか、MCHの今後の可能性、さらにはその問題点について解説してみたい。

MCHを活用する意味

今、世界は脱炭素社会に向かいつつある。脱炭素社会とは言うまでもないことだが、石油、石炭、天然ガスのような化石燃料に頼らない社会という意味である。政府は2050年までに温室効果ガス排出量を実質ゼロにするという目標を掲げており、これが実現すると化石燃料はほとんど使用できなくなるだろう。「石油産業はこれからどうなるのか 脱炭素社会で石油系燃料が売れなくなったら」参照

その代わりに我が国の主要エネルギー源となると期待されているのが、太陽光、風力、バイオ、水力、地熱などの再生可能エネルギーである。しかし、これらの再生可能エネルギーの導入には様々な課題がある。

すなわち、これら再生可能エネルギーの多くは電力として産出されるが、電力は貯蔵ができないことや、送電線のない地域への輸送が困難であることが挙げられる。さらに再生可能エネルギーはその出力が不安定であるから、エネルギーの需要と供給のバランスがとりにくいという根本的な問題を抱えている。

それを解消する手段の一つとして提案されているのが水素の活用である。電気が余剰のときに水を電気分解して水素を取り出して、水素の形で貯蔵しておき、電力が不足した時にその水素を火力発電所で燃やして、あるいは燃料電池を使って電力に戻して送電する。そんな使い方である。

さらに、水素はエネルギーの貯蔵だけではなく、遠隔地にエネルギーを運搬する媒体となることが期待されている。例えば中東やオーストラリアの砂漠地帯に大規模な太陽光発電設備を建設しておき、そこで得られた電力で水を分解して水素を得る。その水素を日本に運んで、また電力として使用する。そんな構想が語られている。ちょうど、産ガス国で天然ガスを液化して日本に運んで、火力発電を行うような感覚であろう。

しかしながら、実際には水素そのものでは、そのような活用が難しい。なぜなら水素は気体であるから、かさが張る。つまり非常に体積が大きくなってしまい、単位体積あたりのエネルギー密度が極端に低くなってしまうのだ。例えば1リットルのガソリンが持つエネルギーは33.36MJなのに対して、1リットルの水素のエネルギーはわずかに0.0128MJに過ぎない(いずれも高位発熱量)。「水素は本当に夢の燃料か? 過度な期待は禁物だ」参照

こんなにエネルギー密度の低い水素を海外から運んでくるのは、それこそ水素ならぬ空気を運んでいるようなものだろう。だから、水素をエネルギーの輸送手段として使おうとするなら、なんとか水素の容積を減らしてエネルギー密度を高める必要がある。

これには、いくつかの方法が提案されている。まず、水素を高圧に加圧する方法。70MPaまで加圧すれば体積は700分の1まで小さくなる。次の方法は水素をマイナス253℃まで冷却して液体にする方法。これなら体積は800分の1になる。

そのほか、水素を水素吸蔵金属と呼ばれる金属に吸着させる方法や、窒素と反応させてアンモニアにする方法、あるいはある種の化学物質に水素を付加させる方法などがある。

ここで使う金属やアンモニアや化学物質のように水素を内部に貯めることのできる物質を水素キャリアという。航空母艦は英語ではエアクラフトキャリアというが、これはエアクラフト(航空機)を運ぶ船という意味。水素キャリアは水素を運ぶ物質という意味だ。

今回、ENEOSが実証試験を行うMCHは化学物質に水素を付加する方法のひとつ。水素を付加する化学物質として有機物を使うので、有機水素化物あるいは有機ハイドライドという。この有機ハイドライドの中で最も開発が進んでいるのがMCHなのだ。

MCHの使い方

MCHの場合、水素を貯蔵するために使う化学物質はトルエンである。


この図に示したように、再生可能電力で作られた水素(図の左側)はトルエンに付加されてメチルシクロヘキサン(Methyl Cyclo-Hexane)すなわちMCHになり、船で水素の需要地(図の右側)に運ばれる。

トルエンからMCHへの化学反応式


需要地では、MCHはタンクに貯められ、必要に応じて水素を取り出して利用される。水素を抜き取られたMCHはトルエンに戻り、再び水素の生産地に運ばれることになる。

トルエンに水素を添加することによって、水素の体積を約500分の1にすることができる。MCHとトルエンはいずれも常温常圧で液体なので、貯蔵はタンクに入れて行うことができ、輸送するときは少量ならドラム缶かコンテナで、大量ならケミカルタンカーを使うことが可能になる。

なお、この技術は千代田化工建設、三菱商事、三井物産及び日本郵船の4社が共同で設立した次世代水素エネルギーチェーン技術研究組合がNEDOの支援を受けて開発しているもので、千代田化工ではMCHを使った水素の貯蔵輸送システムをSPERA水素システムと称している。

MCHが優れている点

MCHが水素キャリアとして優れている点はいくつも挙げることができる。

・常温常圧で貯蔵が可能
液体水素はマイナス253℃以下まで冷却しなければならず、高圧水素、水素吸蔵金属、アンモニアは加圧して圧力容器に貯蔵する必要がある。しかし、トルエンもMCHも常温常圧で貯蔵が可能だ。したがって、低温を保つための特殊な容器も高圧容器も必要ない。なんとなればバケツに入れても持ち運びできる。(揮発性・引火性があるので、安全の観点からバケツは推奨できないが)

・液体である
高圧水素やアンモニアは気体、水素吸蔵金属は固体であるが、トルエンもMCHも液体であるから、配管やポンプで運送することができる。もともとトルエンやMCHはガソリンの成分のひとつである。したがって、既存の石油輸送インフラをほとんどそのまま使うことができる。

・既存の石油精製技術が使える
もともとこの技術は石油精製過程で、高オクタン価ガソリンを作るために開発された改質装置で使われているものである。改質装置は製油所には必ずと言っていいほど装備されているもので、ガソリンのオクタン価を上げるとともに、このとき出てくる水素は製油所内で灯軽油や重油の硫黄分を除去するために実際に使われている。

石油会社がMCHに取り組む理由

実は、原油から取り出されたばかりのガソリンの中にはMCHが含まれている。改質装置でガソリンのオクタン価が上がる理由のひとつは、このMCHがトルエンに変わるからである。つまり、MCHから水素を取り出す技術は、すでに製油所ではお馴染みの技術なのである。

今回の実証試験はENEOSが持つ川崎、和歌山、水島の3製油所を候補地に挙げているが、いずれも改質装置が装備されている。ブルネイから送られてきたMCHは、この既存の改質装置をそのまま使って水素を取り出すのだから、設備投資の必要はほとんどないだろう。

今回、MCHから取り出された水素は製油所内で使用することになっているが、将来、脱炭素化が進んで石油需要が減れば、改質装置は余剰となる。このとき、この余剰となった設備を使ってMCHから水素を取り出して発電等に使用することが考えられる。「2035年ガソリン車販売禁止 余ったガソリンはどうなる」参照

今回の実証試験は、その布石であろう。ENEOSは着々と脱炭素化社会への次の手を打っているということだ。

MCHの問題点

以上、MCHの利点をいろいろと述べたが、ここではもちろんMCHのちょうちん記事を書くことが目的ではない。当然、MCHにも問題点がいくつかある。ただし、水素キャリアは、それぞれ一長一短があるので、MCHだけに問題があるというわけでもない。MCHの一番の問題点はこの項の一番最後に述べる。

・運べる水素の割合が少ない
まず、問題のひとつは、液体水素や高圧水素が100%の水素であるのに対して、MCHはその重量の約5%分の水素しか運べないということだ。ただし、液体水素は冷却設備や断熱タンクの重量、高圧水素はボンベの重量までを考慮するとMCHがそれほど劣っているわけではない。輸送距離によって、その経済性は違ってくるだろう。

・高温高圧の化学プラントを必要とする
MCHは水素を添加するときと水素を取り出すときに、高価な高温高圧の化学プラントを必要とする。といっても、液体水素の場合は冷却プラントが、アンモニアはアンモニア製造プラントが必要となる。高圧水素や水素吸蔵金属はコンプレッサーで水素を加圧するだけよいが。

MCHは水素を添加するためのプラントは新設が必要となるが、水素を取り出すときは先ほど述べたように、すでに設置済みの改質装置を転用すればよい。ENEOSが狙っているのはこの点である。

・トルエンを持ち帰る必要がある
液化水素は生産地から需要地へ一方通行、ワンスルーである。アンモニアも水素を取り出すとあとに窒素が残るが、この窒素は大気中に捨ててしまっても問題ないからワンスルーである。しかし、高圧水素はボンベを水素吸蔵金属も金属を生産地へ持ち帰る必要がある。

MCHも水素を取り出したあとのトルエンを水素生産地へ持ち戻る必要がある。ただし、この場合は、MCHを運んできたタンカーの帰り船が使われることになるだろう。

・一番の問題は熱マネジメント
あまりマスコミで語られない問題点として挙げられるのが熱の問題である。このあたりはMCH開発各社のプレスリリースにも述べられていないので、マスコミの記事にも書かれていない。しかし、実はMCH固有の大きな問題なのである。

前掲のプレスリリースの図を見てほしい。この図に小さくΔH=205kJ/molと記載されていることに気づかれただろうか。これについてこの図では何の説明もされてない。

これは水素の生産地で水素をトルエンに添加するときには205kJ/molの熱が放出され、一方、水素の需要地でMCHから水素を取り出すときに205kJ/molの熱を消費することを示している。この205kJ/molという熱量は決して小さなものではない。

水素生産地で出る熱量と需要地で消費する熱量は同じだけれど、生産地ではこの発生した熱を使う機会はほとんどなく、捨ててしまうことになる。一方、需要地ではMCHから水素を取り出すときに大量の熱の供給が必要となる。

既存の設備では石油ガスを焚いてその熱を得ているが、そのとき大量のCO2が発生する。だから脱炭素を目指すのならこの方法は使えない。近くに余剰熱源がなければ、せっかく持ってきた水素の一部を燃やして熱を得ることになるだろう。

ある文献によると水素を100㎞運搬する場合、高圧水素で運んだ時のエネルギー効率は54%だが、MCHで運んだ場合は46%に低下してしまうという。この主な原因はMCHから水素を取り出すときに大量の熱エネルギーが必要となるからである。

発電所を併設すればいい

しかし、対策はある。MCHから水素を取り出す装置の近くに水素専焼の発電所を作るのである。そうすれば、その発電所の排熱を利用してMCHから水素を取り出すことができる。

もちろんこの結果、MCHと発電所がワンセットということになり、それだけ大規模な設備になってしまうが、海外から運んできた水素を発電に利用するというのなら、発電所も一緒に作ってしまえということである。ただし、水素を燃料電池車やその他の用途に使うのは難しくなる。



今後、世界中で脱炭素化の動きが広まり、再生可能エネルギー発電が大規模に導入されると、発電量が多いところと消費が多いところ、あるいは発電量の多い時期と少ない時期という具合にムラができる。そうすると、いわゆるエネルギーの地産地消では賄いきれない。

結果、発電量の多いところから、需要の多いところへ、何らかの方法でエネルギーを運ぶ必要が出てくる。陸続きなら送電線で運べばよいが、日本のような島国ではそれは難しい。

だから、エネルギーを貯蔵したり、輸送したりする方法として、水素キャリアが研究開発されている。MCHはその有望な候補の一つである。今後、MCHに限らず水素キャリア事業は新たなビジネスとして実現していく可能性が高いだろう。「電気を貯める方法は蓄電池だけじゃない 蓄電ビジネスは成立するか」参照

2021年8月21日

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