工場勤務をテレワークでできないか想像してみた 意外といけるんじゃね?

工場勤務をテレワークできないか

新型コロナウイルス禍を契機として、一気に導入が進み始めたテレワーク。これからいろいろな職場で定着していくのではないでしょうか。

ただ、テレワークに向いている職場と向かない職場があると言われています。特に製造業の場合は工場ごと自宅に持ち込むわけにもいかないし、テレワークには一番向かない職場と言われています。本当にそうでしょうか。

ここでは、あえて工場勤務をテレワークでやったらどうなるかを考えてみたところ、意外といけるんじゃね。という結果になりました。で、その内容を小説形式で紹介したいと思います。

時は今から10年後の2030年4月。工場は広島県のコンビナート内にある架空の石油化学工場を想定しています。

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午前5時 工場テレワークの始まり

「コンコンコンコン、コンコンコンコン、…」
控えめの音量に設定していた目覚まし時計のアラームで俺は目が覚めた。しばらく夢の中から抜け出せなかったが、思い出した。今日は勤務の日だった。

俺は、隣に寝ている妻を起こさないように、そっとベッドから抜け出ると、洗面で顔を洗い、髭を剃り、パジャマを部屋着に着替えてから、仕事部屋に入った。

外はまだ暗い。照明をつけて、机の前の椅子に座る。
机の上には会社から支給された3台の大型モニターが三面鏡のように並んで、俺を取り囲んでいる。それぞれのパソコンのスイッチを入れるとモニターに画像が映し出された。これから仕事が始まるのだ。

俺はアルファブラボー石油化学株式会社の運転担当エンジニアだ。瀬戸内石油化学工場製造第一課パラキシレン製造係運転担当係長という長たらしい肩書を持っているが、工場に勤務しているわけではない。

工場は広島県のコンビナート内にあり、俺が今いるところは千葉県勝浦市の海岸沿いに建てられた高層マンションの一室である。ここから広島県の石油化学工場の運転を行うのだ。

机の上に配置された3台のモニターは、左からナンバー1、ナンバー2、ナンバー3と名付けられている。左側のナンバー1モニターはウェブ会議をやったりメールを表示したりするためのもの。中央のナンバー2モニターは工場内の様々なデータがリアルタイムで数字やグラフで表示されている。右側のナンバー3モニターは担当するプラント内の各所に設置された監視カメラからの映像を映している。

ちなみに、モニターの数に合わせてパソコンも3台あるが、これはこのうち1台が故障しても、他の2台でバックアップできるよう配慮されているわけである。

俺は左側のナンバー1モニターからメールを開いて、本日の作業予定を確認した。

  • 午前10時から製品タンクを105番から103番に切り替え
  • そのあと105番タンクからサンプルを取って品質管理課へ提出
  • 午後1時30分からパラキシレン製造装置の処理量を28トン/時から32トン/時に増加
  • 午後3時に出荷用ケミカルタンカーが第2桟橋に着さんするので、101番タンクから3,000トンの製品パラキシレンを出荷
  • そのほか 設備検査課の係員がプラントに入って、配管の肉厚検査を実施。定期的なポンプの点検

いつもの定常的な作業ばかりだ。今日も退屈な一日なりそうだ。

ナンバー2モニターには、プラント内の様々な部分の温度や流量、圧力などが数値や折れ線グラフで表示されている。運転状況に異常があれば、このモニターに警報が表示される。
石油化学プラントというものは一日24時間、365日ずっと稼働し続けている。俺が勤務していないときも当然動き続けているわけで、この間、俺たち運転員が交代でお守をしているわけだ。

俺は折れ線グラフのひとつひとつを見ていって、夜中に異常がなかったか確かめる。おや、ベッセル9番の圧力が上下に振れている。圧抜き配管の流量を見ると、これも細かく増えたり減ったりしている。ハンチングという現象だ。

さらに、夜中にガス漏洩検知器AG-4が2回ほどアラームを出して、すぐに解除されている。といってもハンチングもアラームもそれほど珍しい現象ではない。この程度の異常はいつもどこかで起こっている。ただし油断は禁物である。

ナンバー1モニターに着信を知らせるアラームが表示された。夜勤の柴田係長が引継ぎのミーティングを求めているのだ。ミーティングは5時50分からのはずだが、時計をみるとまだ5時40分。10分早い。何か緊急の要件があるのか、それとも早めに仕事を切り上げたいのか。

ナンバー1モニターをウェブ会議に切り替えると、柴田係長ののんびりした、眠そうな顔が映し出された。「早めに仕事を切り上げたい」の方だったようだ。

「おはよう」
「おはよう」
「そっちはどうだい」と俺。
「昨日から吹雪になってね、周りは雪だらけだよ」と柴田係長。

言い忘れたが、柴田係長は北海道のトマムに住んでいて、俺と同じくテレワークでプラントの運転をやっている。

「じゃあ、これから春スキーにお出かけかい?」
「いや、これから寝るよ。おれも年だね。若いときは夜勤明けでスキーもできたんだけど」

それから、柴田係長と型通りの仕事の申し継ぎをした。おおむね異常はない。

「ベッセル9番がハンチングしていて、ガス漏洩検知器が2回ほどアラームを出したようだけど」と俺。
「そうなんだ。ハンチングの方はいつものことだから、そんなに気にすることはないと思うけど。ガス漏洩の方はね。夜中にフィールドに言って点検してもらったんだけど、特に異常はなしさ」
それで申し継ぎは終わり。

「じゃあおやすみ」と俺。
「じゃあね」と柴田はあくびをしながらモニターをオフにした。テレワークなら通勤がないので夜勤が終われば、すぐにベッドにもぐりこむことができる。

午前6時 朝のミーティング(危険予知)

俺は、当直係員にモニターに出るよう指示を出した。朝のミーティングをやるためだ。

担当するプラントの係員は全部で20人いるのだが、交代で勤務しているので本日の当直は係長の俺を入れて入れて4人しかいない。やがてナンバー1モニターには4人の顔が映し出された。4人の名前は、青木(55才)、岡田(35才)、徐(28才)そして俺(42才)。

プラントの運転員はボードとフィールドに分けられる。ボードというのはプラントの運転状況を監視したり、運転条件を変更したりするのが仕事で、これは岡田がテレワークでやる。

フィールドというのは、実際に現場に出て作業や監視をする仕事で、青木と徐が担当。フィールドは今のところテレワークというわけにはいかず、プラント内のコントロールルームに常駐して作業を行っている。ちなみに徐だけ女性でそのほかは男性である。

各担当は夜勤の担当同士で申し継ぎが終わっており、朝のミーティングでは係員がそれぞれの引継ぎ内容を説明する。最後に俺が本日の予定を確認して、問題の起こりそうなところをみんなで話し合い、実際に異常が起こればどうするかを前もって確認しておく。

今回は昨晩、ガス漏洩検知器AG-4が2回アラームを出したことを議題として、それぞれ簡単に意見を言わせた。ガスが本当に漏れたらどうするか、前もって対応を確認しておくためで、いわゆる危険予知というやつだ。
このミーティングが終わると、各自が持ち場に戻って作業を始める。

俺はテレビ会議モニターを切って、一息ついた。どうも昨晩のガス検知器のアラームのことが気になる。

「チャーリー。音楽」と俺。
チャーリーとは俺がスマートスピーカーに付けた名前である。
「どんな曲にしましょう」とチャーリー。
「静かなのがいいな」
「マーラーの五番ではどうでしょう」
「じゃあそれで」

部屋にマーラーが流れ出した。ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮、ベルリンフィル演奏。20世紀に録音された古いバージョンだが、いまだに色あせない。 会社の規則では、仕事中に音楽を聴くことまでは禁止されていない。

俺は、ナンバー2モニターの折れ線グラフの束を、また見つめだした。
外は明るくなり、窓からは朝日を浴びた海が見え始めた。

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午前8時 朝食

部屋の外では子供たちが朝食を食べたり、学校に行く準備をしたりしている声がしていたが、やがて静かになったので、学校に行ったのだろう。

妻が朝食を持って部屋に入ってきた。トーストと牛乳、ハムエッグとサラダと果物。いつもの定番メニューである。俺は朝食を食べながら仕事を続ける。今日は妻が朝食を作ったが、朝の勤務がないときは俺が朝食を作る。俺が作るのはご飯と味噌汁と焼き魚。妻が作るのはトーストとハムエッグだ。

妻と俺とはサーフィン仲間で、湘南で知り合った。結婚してから、しばらくは横浜のマンションで暮らしていたのだが、数年前にこの勝浦のマンションを買って住み着いた。もともとここはリゾート用に建てられたものだが、持ち主が亡くなって、相続した子供が売りに出したのを格安で手に入れたのだ。

相続してもどうせ彼らは利用しない。固定資産税だけ取られるなら売ってしまえと言うところだろう。このあたりには、そんな物件がごろごろしている。

ここの欠点は交通の便が良くないことだが、妻もテレワークしているので、二人とも通勤の必要がないので、あまり問題にならない。生活に必要なものは近くのスーパーでも買えるが、だいたいアマゾンやヤフーで用が足りる。近くの朝市でも新鮮な野菜や魚が手に入る。

こういうところがテレワーク勤務者の特権といえるだろう。
ちなみに、2020年に流行した新型コロナウイルスのような疫病も、こんなところまではやってこない。感染症は人の密集した都市部を中心に流行するものだ。

午前10時 タンク切り替えとサンプリング作業

俺は、当直係員にモニターに出るよう指示を出した。午前10時から製品タンクの切り替えと製品サンプルの採取作業をするためだ。

この作業は、本日の作業指示書に書かれている。作業指示を出す係の者をスケジューラーというのだが、スケジューラーをやっている奴のことを実は俺はよく知らない。仕事が始まる前に今日やるべき仕事の一覧表がメールで送られてきて、俺たちはその指示に従って作業をする。

このタンク切り替え作業も、このままいくと何10基もあるタンクのうち、ひとつのタンクが満杯になってしまうので、その前に他のタンクに切り替える。スケジューラーが、それを予測して俺たちに指示するわけだ。

同じように、本日は午後から処理量を増加させる指示が出ているが、これも、このままいくとやがて製品が足らなくなるとスケジューラーが予測して、製造量を上げろと指示しているわけだ。おそらく、指示された製造量もきちんと計算されて過不足が発生しないように、かなり先のことまで読んで、決めているのだろう。

しかも、これらの作業が一度に重ならないように、日にちや時間が調整されて指示されている。もし、さまざまな作業が一時期に集中したら、俺たちたった4人では作業をこなしきれなくなってしまうだろう。

きっと、とても頭のいい奴がスケジューラーをやっているのだろうと、俺はときどき感心する。そいつもテレワークで仕事をやっているのだろうか。ひょっとすると、そいつは人間じゃないかもしれない。このような仕事はまさにAI向きの仕事なのだ。とすれば、俺たちは人間じゃなくてコンピューターに操られていることになる。

3人の当直係員がモニターに出たので、「今から製品タンクを105番タンクから103番タンクに切り替え、そのあとで105番タンクのサンプルを採取する作業を始める」と俺は宣言をしてから、分担を決めた。切り替え作業は岡田。タンクの監視は徐。切り替え後のサンプル採取は青木の仕事だ。

「では作業開始」
彼らは作業に取り掛かった。

まず、岡田が遠隔操作で103番タンクのバルブを開ける。俺はナンバー2モニターをタンクヤード操作画面に切り替えて監視する。

暫くたつと、103番タンクのバルブの表示が赤から緑に変わった。岡田が遠隔操作でバルブを開けたのだ。ちなみに岡田が住んでいるのは大阪の和泉市。瀬戸内工場から200㎞ほど離れている。
するとブザーが鳴って、ナンバー2モニターの105番タンクの部分が赤く点滅し始めた。タンクの異常を知らせる警報だ。しかし、これは予想していたことだから特に心配はいらない。

製品は今まで105番タンクに送られていたので、液面が少しずつ上昇していたわけだが、103番タンクのバルブを開いたため、二つのタンクが一時的につながった状態になる。すると液面の高い方のタンクから液面の低い方のタンクへ製品が移動し始めるので、これによって105番タンクは急に液面が低下することになる。

これを監視コンピューターが異常と判断して警報を出したというわけである。異常ではないので、俺は警報解除ボタンを押して、警報を止める。

ナンバー3モニターに二つの画面が映し出された。一つはタンクの上空から、もう一つは道路上を映している。タンクの上空画像は、ドローンからの映像で、このドローンは徐がコントロールルームから操作している。

ドローンは次第に高度を下げ、103番タンクのバルブに近寄って、このバルブが問題なく開いたことを映し出した。

「103番タンクバルブ、開放しました。異常はありません」と徐の声がした。
「了解」俺が答える。

ドローンはそれからゆっくりと103番タンクの周りを一周してから、高度を上げ、今度はタンクの上部からの映像を映し出した。タンクに液漏れなどの異常がないか確認しているのだ。やがて、ドローンは飛び去って105番タンクに向かった。

次に、105番タンクのバルブが緑から赤に変わった。岡田が和泉市の自宅から操作してバルブを閉じたのだ。このバルブも徐が操作するドローンが近寄って異常がないことを確認する。

俺は、105番タンクの液面が動かなくなったこと、一方103番タンクの液面が順調に増加し始めたことをナンバー2モニター画面で確認する。

道路を映している画像は、サンプル運搬ロボットからの映像である。このロボットは二本歩行ではなく、4個のタイヤで動く。ルイージという名前が付けられており、これはコントロールルームから青木がリモートで運転している。

ルイージは105番タンクのサンプル採取装置に近づいて行った。ルイージが近づくと、タンクに併設されているサンプル採取装置が、タンクに差し込まれた配管からサンプルを1リットル自動的に採取し、これをガラス瓶に入れる。

サンプルが取れると、サンプル採取装置の上蓋が開く。ルイージがロボットアームでそのサンプルをつかんで、自分の荷台に置き、かわりに空のガラス瓶をサンプル採取装置に入れる。採取装置は上蓋を閉めて、次のサンプル採取まで待機することになる。

ルイージは、105番タンクを離れ、品質管理課までそのサンプルを運んでいく。
これで製品タンクの切り替えと製品のサンプルの採取作業は終わりである。

11時30分 昼休み

俺は昼休みに入った。岡田と俺はそれぞれ1時間ずつ交代で休憩を取る。青木と徐もそうしているはずだ。

俺は台所に行って、冷凍庫から冷凍うどんを取り出し、どんぶりに入れ、レンジでチンして、卵を乗せて、ねぎを散らした。月見うどんの出来上がりだ。妻の分も作って、妻の部屋に持って行ってやった。妻も自室でテレワーク中だ。

うどんを食い終わると、気分転換に外に出た。もし、工場で何か問題が起これば、岡田がスマホに連絡してくるはずだ。マンションの外はすぐに公園になっていて、海まで歩いて行ける。春とはいえまだ少し寒いが、松原の中を歩いていると気分が爽快になる。海岸に着いたら深呼吸をして、またマンションに戻る。

工場勤務だったら昼休みに散歩と言っても、工場の中を歩くだけだから、こんな爽快な気分にはならないだろう。

午後1時30分 処理量の変更作業

午後は、プラントの処理量を上げることとケミカルタンカーへの出荷作業だ。

プラントの処理量を上げる作業は岡田に任せることにした。この作業は、現場に行く必要はない。岡田は和泉市の自宅からリモートでプラントへの原料のBTX導入量を少しずつ増加させる。ちなみに、俺たちがお守りをしているプラントは、ガソリンから抽出されたBTXを原料として、プラスチックの原料となるパラキシレンという物質を製造している。

BTXの導入量が増加することによって、蒸留装置の運転が少し変動する。その変動が大きくならないように調整していくと、さらにもっと先の抽出装置が変動するのでこれも調整する。こうやって、少しずつプラントの変動を調整しながら、処理量が指定の数値になるまでBTXの導入量すこしずつ上げ、さらにプラント全体の運転状況が安定するまで調整を繰り返す。

これはすべて、岡田が和泉市の自宅でやる。俺は、勝浦のマンションの一室で、岡田がへまをやらないか監視するわけだ。

午後3時 出荷作業

製品の出荷は、ちょっと面倒だ。ケミカルタンカーが桟橋に着さんすると、桟橋に待機している下請け会社の作業員が、もやいを取って、タンカーを桟橋に固定させる。

ちゃんと固定されたら、今度はタンカーの受け入れ配管と工場側の出荷配管を直径20㎝ほどのゴムホースで接続する。ゴムホースの接続が終わったら、漏れがないか確認して、問題なければ専用電話で作業が終わったことを連絡してくる。

作業完了の電話があれば、今度はうちのチームの出番だ。岡田が、遠隔操作で出荷タンクのバルブを開け、出荷ポンプを起動させる。出荷流速と出荷量をセットするのも岡田の仕事だ。

出荷状況は徐がドローンを使って上空から、青木がクッパを使って道路上から監視する。
言い忘れたが、クッパはルイージと同じサンプル搬送ロボットだ。サンプルを搬送するだけでなく、このように作業の監視にも使うことができる。

ちなみに、最初に配属されたロボットにはマリオと言う名前を付けたが、古くなったので引退し、代わりに二台の新しいロボットが配備された。われわれは、このロボットにルイージとクッパという名前を付けたというわけである。

午後4時 緊急事態発生

スケジューラーに指示された本日の作業はどれも問題なくこなした。実に順調だ。勤務が終わるまであと2時間。俺は本日の作業日誌を書き始めた。夜勤に申し送るためだ。

1日の勤務時間は12時間。朝6時から夜の6時までだ。明日は夜勤なので、昼間は仕事がなく、夜6時から勤務を開始し、3日目の朝6時まで続ける。その日はそのあとの仕事はない。4日目と5日目は一日中オフ。

つまり、5日間に1回の昼勤務と1回の夜勤務があり、そのほかは基本的に休みということだ。1回の勤務が12時間というのはやや長いが、自由にできる時間も長いので俺は気に入っている。
それに、夜勤時は深夜手当がもられるので、実入りもいい。ただし、生活が変則的になるので、体調管理には十分気をつけないといけない。

突然、「ビー、ビー」という警報が鳴りだした。
机の上のナンバー2モニターに目をやると、赤い四角が点滅している。昨夜2回警報を出したあのガス漏洩検知器AG-4だ。AG―4がガス漏れを検知したのである。

「現場を見てきましょうか」
と徐からの声がした。ナンバー1モニターに徐の顔が映っている。
「ああ、そうしてくれ」と俺。

徐はコントロールルームから出るための準備を始めた。コントロールルームから出てプラントへ行くときは、いろいろな装備を着装しなければならない規則になっている。ヘルメット、安全帯、ガス検知器、連絡用マイクとイヤホン、保護メガネ。ガスマスクも用心のために腰からぶら下げる。あとカメラをヘルメットに着装する。桟橋に出るときはライフジャケットも着けるが、今回はその必要はない。

俺はナンバー3モニターを操作して、ガス漏洩検知器付近の映像を選び出して映し出した。
見たところ、特にガスが漏れているようには思えない。画像を赤外線画像に変更したうえで、ズームで機器の表面を精査していった。

「あ!ここだ」
熱交換器HE―7Bのフランジ部分から微かにガスが噴出しているのが見える。可視光画像では見えなかったが、赤外線画像では見ることができた。

これが原因か。と思ったそのとき、急に画面がまっしろになった。俺は画像を赤外から可視光へ、望遠を標準に戻した。今まで微かな噴出だったガスが大量に噴出し、しかも原料のBTXが霧状になって噴き出ているのが捕えられた。

これはいかん。火災になる危険がある。
俺はマイクで徐に呼び掛けた。
「徐さん、現場に行ったらいかん。帰ってこい。危険だ。」

ナンバー3モニターをコントロールルームの外の画像に切り替えると、一旦外にでていた徐が慌てて引き返してくるのが見える。コントロールルームに入れば安全だ。コントロールルームはプラント内で爆発が起こったり、有毒ガスが発生したりしても運転員に危害が及ばないように作られている。

俺は、保安係長の自宅につながる電話のボタンを押す。保安係長もテレワーク中なのだ。保安係長は直ぐに電話に出た。

「パラキシレン製造装置のHE―7Bから漏洩発生。水素ガスとともにBTXが霧状に噴出している」
と俺は伝えた。
「わかった。すぐに自衛消防隊を出動させる。消防署へも俺から通報する。そちらは対応に専念してくれ」

保安係長はさすがに冷静な声で応答する。
俺は保安係長との電話を切り、岡田を呼び出した。

午後4時30分 緊急停止

「聞いたか」と俺。
「聞きました」と岡田。
「緊急停止の可能性があるので、準備しておけ」
「わかりました。準備します。けど、俺、緊急停止は初めてなんですけど」
「俺もやったことはないよ。訓練でやってるようにやればいいんだ」

俺は今度は青木を呼び出す。
「青木さん。ルイージを出して、現場を確認してくれ」
「はい。今、準備中です。クッパも出しましょうか」
「ああ。そうしてくれ」

右側のモニターがルイージからの画像に変わった。さらにしばらくしてルイージのあとを追うクッパからの画像も映し出された。ルイージは青木が、クッパは徐が、それぞれコントロールルームから遠隔操作している。

ルイージとクッパがガスの噴出している場所に近づいていき、監視カメラでは見えなかった角度からの映像をとらえた。思ったよりも漏洩量が多い。

突然、ルイージの映像が途切れた。クッパの画像をみると、HE-7Bの漏洩部分が炎に包まれるところだった。フランジから噴出した水素ガスと霧状のBTXに、何かの原因で着火して爆発したのだ。ルイージが爆風で横転しているのが見える。

「岡田!緊急停止」俺は叫んだ。
「緊急停止します」岡田が復唱する。

緊急停止操作は難しいものではない。操作盤に配置された赤いボタンの保護カバーを外して、中のボタンを押すだけだ。あとはコンピューターが決められた手順に従って緊急停止をしてくれる。人間は、その手順どおりに機器が作動していることを確認すればいい。

しかし、実際のプラントの運転で緊急停止ボタンを押すことはめったにない。入社以来、定年まで緊急停止ボタンを一度も押したことがないという運転員がほとんどだろう。

岡田は保護カバーを外して、赤いボタンに指をかけ、もう一度、頭の中で「間違いない。緊急停止の指示を受けた」と、つぶやいてから、一気にボタンを押下した。

「緊急停止ボタンが押されました。ただいまから緊急停止シーケンスを開始します」
コンピューターから冷静な合成音声が聞こえてきた。

緊急停止シーケンスが開始されると、まず原料供給ポンプが停止され、加熱炉が消火される。圧力容器の内部のガスは放出されて圧力が下がり、蒸留塔の熱源が停止し、ポンプ類も順次停止していく。

俺は、マニュアルを見ながら緊急停止シーケンスが間違いなく実施されていることをナンバー2モニターで確認していく。プラント内の各部の圧力や温度、流量などの測定値はどんどん下がっていく。

原料の供給が停止されたことによって、クッパから送られてくる映像の中の火炎や煙も少しずつ小さくなっていく。燃える物がなくなってきたからである。

消防車のサイレンがスピーカーから聞こえてきた。自衛消防隊が到着したのだ。
まだ、コンプレッサーが動いているので、フランジから漏れたガスは燃え続けている。しかし、リアクターの温度が下がれば、コンプレッサーも止まり、火災も止まるはずだ。あとは自衛消防隊に任せよう。

俺は当直係員にマイクで話しかけた。
「みんな、怪我はないか。」
青木と徐から「ありません」と返事がきた。岡田はテレワークだから怪我の心配はない。
「緊急停止操作により、パラキシレン製造装置は停止した。まだコンプレッサーが動いているので炎は出ているが、もうすぐ火災も収まるだろう。みんなよくやった。ご苦労だった」

2020年6月6日

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