生れて初めて株を売ろうと思った。しかも株なんて買ったこともないのに!である。きっかけは、同期入社の会。同じ会社に同期入社した仲間たちと半年に一度程度集まって、近況を報告し合ったりしている。
その会の中で仲間から、かつて所属していた会社の株価が上がっているから、そろそろ売り時だという話を聞いたのである。そのときは、株を持っている人は、そうやって株を売ったり買ったりするんだ。と他人事のように考えていた。

しかし、考えてみれば自分も会社の株を持っているはずなのである。といっても自分で買った覚えはないのだが。持株会という制度があって(今もあるのだろうか)、その制度を利用して株を持っていることになっている。持株会というのは、その会に入会しておくと月々の給与の中からいくばくかのお金が天引きされ、その金で持株会が自社の株を購入する。
株は持株会のもので、その株が次第に貯まっていくわけであるが、そのときは会員(つまり私)には何の特典もない。ただ、数字の上だけで持株会が持つ株の数が増えていくだけなのだ。
そして、やがて定年がやってくる。退職すると持株会も退会することになり、そのとき持株会が持つ株のうち、会員(つまり私)の持つ権利に相当する株が会員に配布されることになる。
ということで、持株会から株の配布を受けたから、私もなにがしかの株を持っている。しかし、私自身が「よし、株を何株買おう」とか、「今は売りだな、よし何株売ろう」とか、そんなことをしたことは一度もない。そもそも株券など見たこともない。
退職に際して、持株会からは証券会社にあなたの口座を作り、そこに何株の株が振り込まれましたよという通知が来ただけである。その通知書も、あれから10年近く経つうちにどこに行ったか分からなくなってしまっている。どうも私はこのような事務的な手続きが下手で、あとでいろいろ不都合が生じることになる。
ただ、私が株を持っていることまで忘れてしまったわけではない。というのは、半年ごとに配当金の通知書が送られてくるからだ。これがなかなかおいしい。配当金通知書が送られてくると、私はそれにハンコを押して郵便局に持っていく。すると、郵便局でその配当金額を現金でくれるのである。
これは半年ごとに、まとまったお小遣いをくれるようなもので、現金をもらえるとなかなかうれしいものである。受け取った金は次の配当金通知書が来るまでの半年間に、飲み代や昼食代となって消えて行った。
だから私も株主ということだ。このまま株を持っていれば、半年ごとに配当金をもらい続けることになるのだろうなと、なんとなく考えていた。このまま配当金をもらい続けるのならなんの手続きもいらないし、ただ株を持っていることだけを頭の片隅においていればいいことなのだ。
しかし、同期会で仲間のひとりが言ったように、今が株の売り時だとしても、株を売ったならば配当金はもらえなくなってしまう。だがここでふと考えた。私も永遠に生きているわけではないと。
私自身は持病もなく、すこぶる元気である。憎まれっ子、世にはばかるというが、すみませんと世間に謝りながら、これからもずっと世にはばかって長生きするつもりでいる。
といっても、長生きすると言ってもせいぜい100歳くらいまでであろう。100歳まで生きるとして、あと二十数年間。死ぬまでにもらえる配当金と今の株価で株を売った時の売却益を計算してみた。すると明らかに今売った方が得だという結果となった。このとき、私は決意した。よし株を売ろう!
しかし、そこでふと困った。確かに株は持っているのだが、いままで株の売り買いなどやったことがない。どういう手続きが必要なのか、売却益はどこに振り込まれるのか、そんなことがぜんぜん分からない。そもそも私の株がどこに保管されているのかも知らないのだ。ただ、配当金をもらっているのだから、どこかに私の株があるのだろう。
取り敢えず、株に詳しい同期のN君に聞いてみた。N君は株に詳しいも何も、なんと高校時代から株の売り買いをやっているという。だから株の世界は自分の体の一部のように良く知っているのだ。
どうやって売ったらいいのだろう。とN君に聞いてみた。そうするとN君、私のために親身になって相談に乗ってくれた。株の売り時はどんなときで、どんな銘柄がいいか。売るときには税金がかかるから、どんなテクニックでそれを軽減するか。などなど。
とても詳しく教えてくれたのだが、私の場合、そんな難しいことより単に持っている株を売るにはどうすればいいのかということである。株を売るなんてN君にとっては、空気を吸ったり吐いたりしているようなものだろうから、当たり前すぎて取り立てて説明することもないということなのだろう。
なにせ、高校時代から株をやっている人間に、70過ぎて初めて株を売ろうという人間が株の売り方を聞いても話がかみ合うはずがないのだ。N君の助言はありがたいのだが、彼にとってみれば今さら空気の吸い方や吐き方を聞かれても答えに窮するということだろう。
ということで、私は自力で株の売却に挑戦することにした。確か、私の株は野村證券に保管されているはずである。持株会からの連絡状にはそう書いてあった気がする。そういえば数年前に野村証券から何か連絡の葉書が来ていたはずだ。(ちなみに配当通知書は野村證券とは別の金融機関から送られてくる。)
ということで、机の引き出しをひっかきまわして葉書を探したのだが、見つからない。いまさら自分の整理の悪さを悔やんでも仕方がないのだが、いったいお前は何やってんだ。
ただ、私は何か重要な知らせがあると忘備ノートに書きだしておくことがある。それを思い出して、忘備ノートを引っ張り出し、淡い期待を持ってページを繰ると、なんとあったあった。野村から来た葉書の内容が書き写されているではないか。これは奇跡である。ちゃんと大事なことは残しておく。俺も意外とやるじゃないかと自分をほめてあげたい。
ノートに書かれていたことは、まず、私の株はネット&コールというサイトから参照したり取引したりすることができるとある。よしよし。そして私のノートには取引店コードと口座番号それにパスワードが記されているのである。うん、これで完璧。
ということで、早速、野村ネット&コールのサイトを開いた。すると、取引店コードと口座番号とパスワードを入力しろと言ってきた。そうそう、これだ。
ということで忘備ノートに記載していた取引店コードと口座番号とパスワードを入力。はやる気持ちを抑えながらログインボタンを押した。ところが、である。「入力事項が間違っています。ログインできません」の表示。
ははん。何か入力を間違えたに違いない。再び取引店コードと口座番号とパスワードを入力。今度は何度も間違いないことを確認。そしてログインボタンを押す。ところが、また「ログインできません」の表示。おいおい。どうなってんだ。忘備ノートに書いた内容が間違っているのか。私ならありそうなことだ。自分をほめてあげたいは撤回だ。
その後、いろいろ試したが、常に「ログインできません」の表示。いったいどうなっているのだろう。少し気を落ち着かせて、野村ネット&コールのサイトをあちこち眺めていたら、なんと「〇〇年以降、取引店コードは使えません」と書かれているではないか。早く教えてくれよ。
取引店コードが変わったという。そして新しいコードはこれこれと一覧表が載せられていた。そうか、これか。ふたたびログイン画面に戻って、新しい取引店コードを入力して、ログインボタンと押下。すると画面が変わって私の名前とお預かり資産合計という欄が出てきた。万歳。ようやく私の口座にたどり着いた。
たしかに、持株会として購入した時の金額に比べて現在の評価額はかなり大きくなっている。同期会の仲間が言ったように、売り時なのかもしれない。はやる気持ちをなんとか抑えながら、売りの手続きに入ろうとした。だが話はこれで終わったわけではなかったのである。(後半に続く)
2026年8月15日


